自由と子育て
「変わった人」とはなんぞや
昔親友に自分のどこが好きかを聞いたことがある。そしたら「私変わってる人が好きだから。」と言われた。そう言う彼女もだいぶマイノリティではあるが、そう言われた時に「そうか。自分はやはり変わっているのかあ。」と自覚した覚えがある。私は、自分の育ってきた環境が大きく影響し、常に人に気を使って、人が求める自分を考えながら生きてきた。だから、「変わっている自分」を自分でも自覚していなかったし、必死に一般的な考えを持たなければと思って生きてきたつもりだった。でも、本当の自分は隠しきれずに、全てを受け入れてくれる親友の前では本来の自分が出てしまったのだろう。この、「自分は一般的な考えではない」ということを客観的に自覚したのは、もう一つあった。それは、心理検査である。一年ほど前、自分自身を知るためにとある大学の心理センターで人格検査を受けたことがある。その時に受けた検査の一つの項目にフラストレーション場面において常識的、一般的な反応を示しやすいかという傾向をみるものがあった。見事に私は正常範囲から逸脱しており、やはり人とはちょっと違うんだなあと再自覚したのである。
「自分は人とは少し違う」と自覚すると、色々なものが見えてきたりする。そして、自分の今までの振る舞いに、人をどれだけ不愉快にさせてきただろうかとか、傷つけてしまっただろうかと色々な出来事を振り返った。自分を知ることの大切さを最近とてもよく感じる。なぜ私はこういう考え方をするのか、なぜこれを求めるのか、自分はどうしたいのか。そこには自分でも気づいていない理由があったりする。その理由に気づくと、不思議と癒されたり、スッキリしたりする。これからも自分探しは続く…。青年期はとっくに過ぎたのに未だに自己探求…。
いいなあの裏側
私は基本的に「いいなあ。」と言われることも言うこともあまり好きではない。全く言わないという事ではないし、人の話を聞いてて、「いいなあ。それ私もやってみたい!」という意味で使うことはある。でも、やるつもりもないのに「いいなあ。」と言われるのは好きではないのだ。私の生きる上で大切にしている事は、「やりたい事はやってみる」ことと「楽しむ」ことだ。だから、人に対していいなあとばかり言うくらいならやればいいのにと思ってしまう。なんで「いいなあ」に軽い嫌悪感を感じてしまうのだろうか。
それを感じたエピソードは、前の職場でのことだ。そこにいた一人の先輩は、人に対して「いいなあ。」と言うことがそもそも多かった。それでもあまり気にはなっていなかったのだが、ある時私が仕事を辞めてワーホリに行く話をした時に、この言葉をやたらと連呼されたのである。こちらとしては、自慢するつもりもないし、やりたいならやればいいし、それをなぜそんなに「いいな、いいなあ」と言うのだろうと思ってしまったのである。何故かそこには、「ずるい」と言うような感情が感じられたように思う。だから嫌悪感を感じたのかもしれない。
自分の考え方、感じ方が一般的と思っていた数年前は、人の言動が理解できなくて色々とモヤモヤすることが多かったなぁと思う。